こころの紋様 -ミニ説教-

〜 信仰に根ざす日本の心 〜

―お年玉は神様のお福わけ―



明けましておめでとうございます。

承福寺でのお話の中に仏教徒であるならば、「新年の参詣は先ず菩提寺から」ということを説いてきました。

それに伴い、そのお参りの機会として往く年来る年の除夜の鐘の声の中に午前零時より新年をお迎えする

法要を参詣者の皆様と共に厳修することが恒例化しています。鐘を撞き煩悩を払い浄めて御仏の前に

座して、皆様と共に経を唱和することから一年が清々しく始まります。

お正月は暦の一年の単なる区切りや初めではなく、昔から神迎え、御霊迎えの信仰に

根ざした行事でした。門松、注連縄、注連飾りなど皆、神迎えのためのものです。

そして晴れ着に着替えて威儀をただし若水を汲み、それを供えて新魂をお迎えしたこと

です。その歳の初め来る御魂を御歳霊〈おとしだま〉といい、その御魂は火に宿りて

歳火として尊びまた、餅やその他のお供えにも宿ると信じられたことから、その福餅を

家長なりが、子や使用人に分け与えたのがお年玉の始まりなのです。

いまやお年玉は「花より団子」ならぬ団子よりお金で、現金が当たり前になりだんだん

高額化しています。しかし、たとえ高額のお金であれ、御霊宿るものとしての敬虔さは

受け継がせたいものです。そのためには、単にお小遣いをやるという安易な形式で

なく、やはり一旦、神棚なり仏壇に供えてから神仏の御霊の福を授け頂く本来の意味

合いをこめて、お下げしてから子供たちへお渡し願いたいものです。

禅宗の寺院である承福寺でもお正月は必ず十六善神図を本堂に掲げ、お鏡餅などを供えて新年に修正会

法要を営んできています。昔はどうであったか分かりませんが、今はずいぶん簡略化されているかも知れ

ません。寺がそうであるならば、一般家庭も正月迎えのへ様子も様変わりでしょう。おせち料理一つ作ら

ない家庭も多いと聞きます。最近では歳の暮れの街ばかりか普通の住宅街が、煌びやかなイルミネ―ション

で飾られ、だんだん派手になりつつあり、道行く人の目を楽しませてくれます。

ところが家庭でも派手にクリスマスツリーなどにお金を掛けて、その分お正月は簡略するという傾向にあると

いうことを聞き何だか寂しくなりました。

クリスマスというキリスト教の信仰行事を単なるイベント化して楽しむのもいいが、

それはそれとして、新年は単なる暦の架け替え的な行事ではないのです。

私たちは古代より神仏等別なる世界とのかかわりの中で生かされ育まれ、守られ

導かれている神の子、仏の子として息づいてきた日本の信仰、また民族の伝統の

放棄であり、日本の心の喪失ではないかと思えてなりません。

正月はハワイで、温泉でというのが流行っています。うらやましいというやっかみに受け取られそうですが、

やはりたとえ簡略でも威儀を正してお歳魂を迎え、お正月は我が家の内外ともに御霊宿らせて本当の

お年玉をいただき一年の無事、息災を願いまたその努力精進を誓う大事な時としたいものです。



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