こころの紋様 -ミニ説教-

〜 八万四千の法門あれども 〜

何を拝むのか



寺の本堂にしろ、ご家庭のお仏壇の中央には必ず本尊とする仏像や、掛け軸の仏画が奉安されています。

禅宗では宗旨から言って一般的にはお釈迦様をおまつりするのが習わしです。宗旨の違いによる拝みの

対象の本尊に違いはあっても、拝み、祈りの対象はご本尊仏です。

ご家庭の仏壇の場合その本尊仏の下に先祖のお位牌が安置され祀られています。しかし、本来位牌は祈り、

拝みの対象ではありません。 私たちが仏教徒としてお参りし、拝むとは、先ず正面中央の尊仏に対して香華

灯明を供養し、真を捧げて礼拝し拝むことなのです。


その拝む者の信仰、信心の誓いが回向となり、その返照として

仏のご慈悲、ご加護があるのです。またその信仰の功徳力が

お位牌として祀る 故人や先祖の霊の慰めや追善となり、善導と

なることです。だからお位牌は本来礼拝したり、祈り願う対象

ではなく、拝みとして祈るのはあくまでもお釈迦さまなどの神秘

世界に通じる如来であることを知るべきです。

 では、一周忌だ、三回忌だといってなぜ年回をしているのでしょうか。そして年回だ、やれ供養だと言っては

僧侶にお経をお願いするのでしょうか。それは単にお経を読める人だからではなく、お経そのものの功徳力と

僧侶とは仏の世界に通じる導師としての立場にある人であるからなのです。  お経を上げ、先祖や故人へ

感謝し、追善供養の営みをするのはそれなりに意義があり大事なことでしょう。しかし、この先祖供養をする

ことが仏の教えそのものでもなく、正しい信仰でもありません。仏教には八万四千の法門といわれるように

多種多様の経典があり、難解で敬遠したくなる印象をもたれそうです。

ところが、たとえ八万四千の法門ありと言ってもその

教えを簡略に見れば、結局人が人として立派になり、

人格の完成を目指し、仏の世界、大真理を体得する、

そのための方法と手段とその論理が説かれている

だけなのです。このように考えると難解な仏教は

決して難しい教えではないと言うことになりましょう。

人が仏に誓って悪業(誤った正しくない行為)を行わず、善業(功徳を積む)によって心身を清浄にして

いく努力(精進)をしていくことの実践が仏教の信仰であります。その誓いと反省と修行の場が本尊まします

お寺の本堂であり、そのミニ版が各家の仏壇であります。ですから自分の家には故人にあたる人がいない

から仏壇はいらない、寺参りもいらないということではありません。

いや、むしろそういう家の人だからこそ却って寺まいりをし、

信仰を深めてもらいたいものです。

お寺は檀信徒の皆様の修行の場であり、心のやすらぎの場であり

ます。ついでながら、お寺参りとはお墓参りや納骨堂におまいりする

ことではありません。本尊様への礼拝供養であり、日々の生活を

ふり返り反省し、懺悔と新たなる誓いを持っての祈りの場なのです。

その精進努力の誓願があってこそ仏様はご加護くださり導き下されるのです。またそれに応えられる寺で

あり、お参りにふさわしい神聖なる場としての本堂であることがまたその前提になり、私たち僧侶として心

すべきことであります。


最後までお読み頂いてありがとう御座います。

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