こころの紋様 -ミニ説教-

〜 死者はホトケにあらず 〜

仏を拝むことの意味



「私の家は分家だから、まだ“ホトケさん”がおられないので、お寺参りはしなくてもいい」という方が結構

おられます。この場合の“ホトケ”とは先祖や故人をさす死者のことを言われています。TV番組の事件もの

で「ホトケの身元を洗え」とか「ホトケの身元がわれた」などと言うときのホトケも死者のことをさしています。

しかし、仏教で言うホトケ(仏)とは、本来、死者のことではなく仏陀(ブッダ)、すなわち正しく悟り真理に

目覚めた人のことを言います。完全なる悟りを開き、大宇宙の真理、摂理を我がものとした人を仏という

ことであれば、我々俗人、凡僧が死んだからといっても決して仏と言う立場になれるものではありません。


死者はあくまでも死者であり、故人、あるいは亡き人であって、本来の正しい

意味の仏には簡単になり得るものではありません。俗に死者を仏になるという

のは、昔から大宇宙の一切は神仏の世界であり、人はその神仏の命を頂いて

生まれ、生きているという人類の普遍の思想があり、仏教にあっても、人は仏の

世界にあって仏の子として仏の命をいただき生かされいるとされてきました。

だから、死してのち葬われ、野に帰り土に帰ってゆくわけですから、これを仏の

世界、仏の命のもとに帰ることであるとするのです。確かに、肉体は死とともに

やがては滅びもとの仏の世界へ同化していくものです。

ところが、死んでしまった故人が礼拝、信仰の対象としての仏になれるものでしょうか。

肉体が死んで自然の中、仏の世界に同化するのは犬や猫、嫌われものの蛇もゴキブリも同じことです。

しかし、誰がゴキブリを仏様として拝みましょうか。ゴキブリが死ねばやはり死んだゴキブリで、拝む対象と

する人はいません。人間とてやはりおなじで肉体が滅び、仏の世界に同化帰一されたからといって、その

人の御霊までが急に立派になり悟りを開いた拝まれる対象としての仏さまになれるわけがないのです。

それは常識として理解できることでしょうし、死ねば仏になるという教えは仏典のどこにありません。

ごくつぶしの嫌われ者や、人を泣かせ、苦しめ、恨まれて

ばかりの人が死んらからといって、どうして拝まれるに値

する仏になれましょうか。それでは因果応報の理法も嘘に

なってしまいます。仏を拝むとは特定の故人、死者あるいは

先祖の位牌を拝むことでなく、お釈迦様などの神秘世界へ

通じた如来を拝むことなのです。


先祖や位牌は礼拝の対象ではなく、故人の御霊の依り代として位牌を安置し祀りますが、拝むのは仏壇の

奥に祀られる本尊としての如来であり、その如来を拝む私たちの信仰の功徳力が先祖や故人の追善として

回向されるのです。


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