こころの紋様 -ミニ説教-

〜 牡丹餅とお萩 〜

先祖の英知に学ぶ



暑さ寒さも彼岸までなのか、寒さ暑さも彼岸までなのかはともかく、春彼岸が過ぎると早速、桜の開花便りが

届き、いよいよ本格的春の陽気に浮かれ出たくなるものです。イラクの戦争のきな臭い興ざめの時だから

こそ、この自然の恵みを謳歌したいという思いです。私は戦争を好ましくは思わないが、この戦争の反戦を

訴えるほどの平和主義者ではなく、田舎の暮らしの一介の庶民として戦争より花見、花見より団子を好む

平凡人であることに今は誇りに思っています。

過般、檀家の法事で大きな牡丹餅が出されて、いささか大き

すぎて箸を持つのを戸惑っていると、「家内の手造りだから、

どうぞ、どうぞ」と亭主にせかされると、「そうですか、それじゃ

遠慮なく頂きます」とゲンコツほどの大きなやつを一つ平らげ

てしまいました。そういえば、子供のころ、お彼岸にはよく牡丹

餅を頂き、戦後の育ち盛り、甘いものの乏しい時代だったので、

今では考えられませんが、一度に五つも六つも食べて、母に叱られたものでした。その田舎造りの牡丹餅の

味を思い出し、またその味わいに浸れる今の幸せを感じざるを得ませんでした。

そのとき、ふとぼた餅とオハギとどう違うのだろうかと思ったので「これはオハギですか?、ぼた餅ですか?」

と冗談まじりに聞いてみました。「さあ、それは小豆がぼってりまぶされているから牡丹餅じゃないでしょうか

ねぇ」と分かったような分からない回答でした。

後日、何かで辞書を引くとき、そのことを思い出しついでに

調べてみました。「ボタモチは牡丹餅で、小豆のあんこを

まぶしたところが牡丹の花に似ているから牡丹餅。

オハギは萩の餅の略称で、煮た小豆を粒のまま散らした

のが、萩の花の咲き乱れるさまに似ているから」ということ

でした。春には牡丹餅と言い、秋には萩の餅と言い、この

如何にも季節感を盛り込んだ名前の付け方、情操の豊かさ

に改めて感心したものです。


牡丹餅談義はともかく、昔の人はちゃんと、名さえ優しい「牡丹餅」や「萩の餅」や「お団子」を神仏へ、

先祖にお供えし、お隣さんへ、そして諸方の知り合いに届けあい、その人との絆をより確かなものにして

いたように思います。春分、秋分の好時節に私たち日本人の先祖はお彼岸という美しい表現を持って、

日ごろの不信心を反省し、仏の教えに心を向ける期間とした英知には感心します。

彼岸とは、彼の岸と書くように、此の岸、此岸(しがん)に対する言葉です。彼岸というのは本来生死の

苦しみに迷っている現実の、この世、すなわち此岸より悩み苦しみを脱した悟りの世界の彼の岸、つまり

彼岸を目指すことであります。したがって彼岸というのは単に春とか秋という特別の期間のことでなくて、

またお墓参りをするとか、先祖祀りをする期間のことでもありません。

彼岸の行事は死んだ人のためでなく、この現実の世界に生きている私たちが如来に手を合わせ、霊性を

浄め、行いにおいて日々の生活を正し、精進し信仰を培いながら安らぎの世界、悟りの世界を目指す実践

行なのだといえます。そのための寺参りでありたいものです。


最後までお読み頂いてありがとう御座います。

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