こころの紋様 -ミニ説教-

〜 八万四千の法門ありとて 〜

信仰は一人一人がすべきこと



寺院と檀家の結びつきは、死者の弔いからその後の祖霊供養としての年忌法要において深くかかわって

いることが一般的です。僧侶とはその役にかかわる職業の人として見られているのはいたしかたがあり

ません。しかし、先祖を供養することや先祖を大事にすることは仏教の本来の宗旨でもなく仏教信仰の

本義でもありません。

しかし、先祖の供養や先亡への追善はそれなりに大事なことですし、仏教寺院

僧侶とてその任を果たすことは社会的役割りとして定着していることです。

だから、このことを本来ではないので排斥するというものではありません。

だが、それがそのまま仏教の教えであるかのように思い込んでいてはならない

と思います。

仏教には八万四千の法門ありといわれるほどに、多種多様の経典があります。

それはいずれも難解で、一般の人々は仏教とはなんとむずかしのだろうという

印象を与えています。

ところが、お釈迦様の八万四千の法門と言っても、結局人が人として立派になり、人格の完成を目指し、

仏の世界、大真理を体得するための方法と手段とその論理をお説きになっておられるだけなのです。

人が仏(如来)に誓って悪業(悪い行為)を行わず、善業(よい行い、功徳を積む)によって心身ともに清浄

にしていく努力(精進)をしていくこと、この日々の実践が仏教の信仰なのです。その誓いと反省と修行の

場が本尊様がまします寺の本堂であり、そのミニ版が各家のお仏壇であるのです。

よく聞く事ですが「自分は二男で家取りじゃないから

仏さんを持たないから、仏壇は要らない、お寺参りは」

本家の長男に任せています」という言い訳です。

信仰とは家がするのでなく、仏教徒一人一人がすべき

ことなのです。仏壇を祀る祀らないはともかく、仏教に

ご縁を頂く一人一人が日々の仏に精進を誓い、信仰に

励んでいくことではないでしょうか。


寺は檀信徒皆様の修行の場であり、心のやすらいと魂の浄めの場であります。だから承福寺は昼間は

もちろん、夜もいつでまもお参り出来るように開放しています。また、お寺参りとはお墓参りや納骨堂へ

参ることではありません。本尊様へのお参りが原則であるべきなのです。お寺へ着たら心身ともに清め

るつもりで、先ずてと口を洗い、心を落ち着けて本尊様の前に静かに坐して手をあわせ、礼拝の後、

日々の生活を振り返り反省し懺悔と新たな誓いをもってお参りください。


最後までお読み頂いてありがとう御座います。

 ぜひご感想をお寄せ下さい。


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