こころの紋様 -ミニ説教-

〜人を憎むことの代償〜

怒りは怒りによって止まず



何かの因果関係があるのか、単なる偶然なのか、飛行機事故や列車事故など、一つの大事故が起きると

また続けて同じような事故が起きたりします。事件もまた然りで、誘拐事件や保険金殺人事件などは連鎖

反応なのか、必ずと言っていいほど同様の事件が続くようです。食品偽装事件の一連の発覚は何をか

いわんやです。

しかし悲しいのは単なる己れの欲望のみで何の罪もない人の命を奪う人命を軽視の殺人事件です。

TVは非情にも、残された被害者の家族の悲しみと怒りの姿を画面にして伝えてきます。

確かに被害者の犯罪者に対して「絶対に許せない」「殺してやり

たい」という憎しみ、怒りの気持ちは当然として同情してしまうの

ですが、その一方で私は仏教者の立場として、被害者の気持ちに

対する十分な理解と同情とは別に「全くそうだ、そうだ」とは言えない

気持ちも起きてきます。 どんなに憎くて余りあり、非道な犯罪者で

あれ、その犯罪に対する怒りと憎しみと同時に、あえてその者たち

に対して同等の哀れみと同情を掛けてやりたい気にさせられます。

もちろん犯罪者の罪を許すということではなく、何の犯罪であれ、結果的にその罪を犯さねばならなかった

生まれ合わせ、育ちの環境、人に恨まれる悪人とならねばならなかった境遇に思いを致し、哀れまずには

おれません。親鸞聖人の言われる悪人の往生ではありませんが、非道な犯罪者であればあるほど、人に

憎まれ、また二度と日の目を見ることが出来ないかも知れない犯罪者とならねばならなかった因果のめぐり

合わせ、そしてまたその家族のことを思うと、その不遇さが哀れまれ、決してその者を憎みきれないのです。

「罪は憎んで人は憎まず」と言う法の精神があります。

だが、被害者にとっては犯罪者が憎く、許しがたいという感情は、

どんな償いでもぬぐいきれるものではないかもしれません。

しかし、どんなに憎み怨んでもその恨みの念は何の解決にもなら

ないというのが真理であり、仏の教えなのです。「怨みは怨みに

よっては止まず」といわれるように、怨みに怨み返せば、怨みは

止まぬばかりか、かえって増幅され、その呪いはまた自らの心を

汚し己自身を苦しめることさえあり得るのです。

私たちはどんな凶悪な犯罪者であれ、その罪は憎んでもその者の、犯罪者として悪人として憎まれる境遇を

哀れみ、相応の罪の償い、重い刑罰を課するは当然としても、その犯罪者にその罪過を悔い改めさせ、

来世に生まれ来る時は過去の罪過を詫び、浄められ、再び悪事に走ることのない境遇に生まれ来るよう

仕向けることではないかと思います。さらに今後も、前科者のレッテルが張られ、人に嫌われていくであろう

ことは仕方ないことかもしれないが、やはり私は気の毒でかわいそうな人として、あえて犯罪者へも同情と

哀れみをかけ、幸せを祈ってやりたいものだと思います。


最後までお読み頂いてありがとう御座います。

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