こころの紋様 -ミニ説教-
〜輪廻転生の秘密A〜
現世に生きることの意味
人の行為には必ず善悪、苦楽の結果が伴うものです。その行為の結果を仏教では「業(ごう)」と申します。 身体の行動によってもたらされる結果を身業(しんごう)と言い、口で言う言葉でもたらされる結果を口業 (くごう)と言い、心の意識の働きによってもたらされる結果を意業(いごう)と言い、その三つの業を身口意 (しんくい)の三業と申します。 |
|||
業には善業も悪業もあるわけですが、善業の場合は徳行あるいは 功徳と言い、ただ業というときは悪業のことを言う場合がほとんどです。 禅宗日課経典には懺悔文(さんげもん)という短いお経が記されています。 我昔所造諸悪業 (がしゃくしょぞうしょあくごう) 皆由無始貪瞋癡 (かいゆうむしとんじんち) 従身口意之所生 (じゅうしんくいししょしょう) 一切我今皆懺悔 (いっさいがこんかいさんげ) |
和訳――われ昔より造れる諸々の悪業は、皆、無始(始めのない、人間が人として意識する以前の昔)の 貪(むさぼりの心)と瞋(いかりの心)と癡(無知で愚かな心)の三毒によるものであり、それは身体による 誤った行いと、誤った言葉と、心のよこしまな働きにより生じたる所以である。その一切の悪業をわれ今 ここに懺悔したてまつる。 |
|
私たちの中には「私は何にも悪いことをしていないのに、どうしてこうも 不幸が続き、苦しまねばならないのか」と嘆く人がいます。なるほど 不合理で、世の中を見渡せば正直者が馬鹿を見て、悪いやつらが のさばって結構幸せそうに暮らしているものですから、腹も立ち愚痴も 出てしまいます。善因善果、悪因悪果の因果応報の仏教教理も疑い たくなるのが現実の世の中です。ところが、人は、今の世だけを生きて いるのでなく、前世、前前世、否やそのずっと前の魂≠引き継いだ 自分であることを知らねばなりません。 |
|
人がこの世一代限りであれば、仏教の因縁の法則は矛盾が生じてまいります。しかしお釈迦様がそんな いい加減なお説教をされるはずがありません。人は生まれ代わり死に変わる輪廻転生の中にあって、 この世に生存しているのは、その輪廻の流れの一コマに過ぎないのです。その一コマの一生涯を私たちは 喜んだり悲しんだり、起こったり楽しんだりしているのです。この輪廻の中にあって「私は何も悪いことをして いない」と言い切れるでしょうか。さらに、私たちはこの世で何も悪いことをしていないと思っていても実は 法律にふれる悪行はしていないだけであって、仏教で言うところの悪業を重ねているかもしれないのです。 |
それには身体による悪しき行為(身業)として、 @殺生〈せっしょう〉(生き物をみだりに殺す) A偸盗〈ちゅうとう〉(他人のものを盗む〉 B邪淫〈じゃいん〉(邪まな性交)があります。 |
また、言葉による悪しき業(口業)として C綺語〈きご〉(ことばを飾り駄言を弄する) D妄語〈もうご〉(嘘偽りを言う) E悪口〈あっく〉〈悪口をいい人をののしる〉 F両舌〈りょうぜつ〉(二枚舌を使う)があり、 さらに意による悪しき業(意業)として、 G慳貪〈けんどん〉(むさぼる) H瞋恚〈しんに〉(怒り妬む) I邪見〈じゃけん〉(邪まな考え)があります。 これを十悪(じゅうあく)と申します。 |
少々仏教語の解説に過ぎましたが、自分では何にも悪いことをしていないつもりでも、知らず知らずのうちに 罪を造ったり言葉足らずで誤解を与え、その誤解が人の恨みをかい罪を作ることだってあるわけです。 だから、ここに犯した諸々の過ちによる悪業を懺悔し、信仰と修行による心の浄化と共に魂の浄めが必要 なのです。この俺は俺のもの、俺の好き勝手にしてもいいではないか!ということは、輪廻転生の理を知る もの、神秘実相の世界を知った者としては言えないことです。現在の自分の生き方が子々孫々に及び、 また来世、再来世の自分の魂の子孫の境遇を決定することを知るべきであります。 |