こころの紋様 -ミニ説教-

〜雑草って呼ぶのは失礼じゃない?〜

陽光は万物に普く




今年は季節の移ろいが早く、すべての花の開花が半月ほど早くなってしまいました。田んぼでは早々に

早期栽培の田植えが終わり、若葉の風が水面を揺らしています。新緑になりきれぬ幾つもの芽吹きの

若葉が春の風に引きちぎられて地面に朽ちようとしています。弱い芽は風に摘み落とされて肥しとなり、

強い芽のみが適度に残り、葉を広げ枝を作り、幹を大きく育てるのです。自然の仕組みのなかでそれ

ぞれの草木はそれぞれの機能を働かせて自らの種を保持し、生息域を広げようとしています。

この時期ともなれば寺の境内も厄介者の雑草がはびこり、

生息域の拡大に旺盛なようで寺の管理人として始末に

おえず、いささか草取りに閉口しています。しかし、最近

私は、これは仕方が無いこととして、受け入れなければなら

ないのだと思うようになりました。なぜなら、自然は人間の

為にのみあるわけはなく、嫌われものの虫や雑草にも生きる

権利が平等に与えられているのだと思うからです。

太陽は人間のためにだけ照ってくれません。米や野菜だけを育ててくれているわけでもありません。万物を

育む太陽の光は、稲や野菜と同時に雑草の上にも差別することなく普くふり注ぐのです。自然にとっては

地球に存在するすべてが平等であると言えましょう。

実は、人間から嫌われものの雑草でも、人間には無くてはならない酸素をせっせと造り、大気中に放出して

くれています。私たちはその自然の恩恵に浴しながら、それを当然と思っているばかりか、人間だけの都合の

いいように自然を支配し、邪魔になる雑草や虫や獣を抹殺してしまおうとして来ました。

しかし、この世の中に無駄なものは無いと言われています

ように、なるほど、私が目の敵にして寺の境内から追放して

いる雑草たちが、せっせと放出する酸素によって私の体の

何億か、何百億かの細胞の一つや二つは生かされている

のかも知れません。すると、無用と思っていた雑草からも

私はおかげを頂き生かされているに違いありません。

植物学者でもあった昭和天皇が、「名もなき雑草といわれるが、名もなき雑草なんて無い」と言われたそう

だが、花や野菜、穀物、用材木ばかりが植物ではなく、雑草も雑木も地球にとっては同じ地球に生息する

仲間にちがいないのです。人間の都合や好みだけで勝手に雑草や雑木として排斥しがちなのですが、

植物自体には本来雑草も雑木などもないはずです。お釈迦様は「山川草木、森羅万象、皆ことごとく仏の

知恵徳相を具有す」と言われたとか。人間のみが尊いのではなく、大自然の営みの中で人間も地球に

生息が許された生物の一員として謙虚であるべきではないかと思います。そんな思いをしながらも、

庭一面に湧き出る如く生え出した雑草を眺めながら、雑草の退治に頭を悩ませています。




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