こころの紋様 -ミニ説教-

〜檀那さまには男女なし〜
貧者たれども大檀那



アフガニスタンの何百万という難民は、アメリカの報復戦争によって始まったのではないが、増大した

のは事実でしょう。いつの時代も戦争の犠牲者は罪のない善良な多く一般庶民であり、子供たちです。

今まで承福寺でもユニセフ(国際連合児童基金)の活動に賛同して、微財の協力をしてきましたが、

今年は特に難民児童の支援の呼びかけがなされて、心いたむ私も、自らの施しのほかに、心ある

檀信徒の皆様にも協力を呼びかけました。

しかし、本来、施しというものは、このように「私はしました」と言って公に

自慢すべきことではないはずです。世間ではお金持ちが多額の寄付を

したり、施しをして社会への貢献を讃えられます。

ところが、その中には「寄付した」「施した」事を恩ぎせしたり、或は売名や

名誉欲からの行為であったりすることがあります。しかし、それは真の布施

の行為ではなく、自我我見の邪心からの自我意識からの行為でありましょう。

真の布施は、その我執から離れ、己を虚しくする陰徳の行いであるべきです。

たとえ如何に善事善行でも、その報酬を望み、名を残そうとする下心があれ、真の仏教的精神から言えば、

陰徳にはならないし、布施にも供養にもならないとさえ言われています。

布施という言葉は梵語(古いインドの言葉)でダーナといい、与えること、施し恵むということであります。

昔、乞食が“右や左のだんな様、どうかお恵みを!”という、あの檀那様は、この「施しをする人」に当たる

ダーナの漢訳の檀那からきているのです。だから、いくら大金持ちの大店の主人でも、社長さんでも施しを

しない人は檀那さんとは言えないのです。真心からなる施し、恵み与える人は、富者、貧者の差別無く男女の

区別なくすべてが檀那さまであると言えましょう。

だから、施しをする人、すなわち、檀那さまのすむ家が檀家で

あるわけです。「私の家は、どこそこの寺に先祖をお預けして

いるので、その寺の檀家です」という人がいますが、それは

間違いで、本当の檀家とは言えないことであります。

拙寺には現在二百軒ほどの檀家が一応あります。一応と言う

のは、その二百軒の内に、はたして何軒が真に仏の教えを

理解し、仏に帰依しようと言うダーナ(檀那)が住んでおられるか

が不明だからです。

施し恵む心の人のいない家は真の意味では檀家とは言えないのですが、ただ、先祖の関わりにおいて深く

結びあっている家を、一般的に檀家と言っているに過ぎないのです。檀那は男女にかかわらず、ほとけに

帰依し、仏の教えを守り、人を敬い、人に施し、助け合える心豊かな人のことであり、決してお金持ちのこと

ではないのです。仏教寺院である以上、やはり承福寺も老若男女の真の檀那さんたちの集い合う場であり

たいと思います。



最後までお読み頂いてありがとう御座います。

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