こころの紋様 -ミニ説教-
〜なぜ四十九日忌があるのか〜
上手な往生の仕方
「四十九日忌が三月(みつき)にかかるが、どうしたら好いのか」という問い合わせがよくあります。 四十九日忌が三ヶ月にわたってはならないなんて、常識で考えても可笑しな話です。一ヶ月は三十一日しか ありません。下旬に亡くなれば、否が応でも三ヶ月にかかってしまいます。 四十九日忌が三ヶ月にかかってはいけないというのなら、四十九日忌(中陰忌)そのものの行事がなりたた ない事になります。「三月(みつき)は身突きに通じる」語呂合わせから嫌われるともいわれていますが、 |
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多分、三月にもわたって喪に服するということは、遺族に とっては大変、精神的にも負担です。 また何度も月が変われば故人への惜別の念も薄れます。 ましてや、忌明けが三ヶ月にも渡れば間延びした感じに なることもあり、お招きする人たちの心の向け方も、もう そろそろ薄れて来るものです。 |
だから、どうせやるなら繰り上げて、故人への思いの厚い内に行なったほうがいいという考えが、何時の 間にか、忌明けを三月に渡らせないほうがいいということなり、それがひいては、してはならないという禁止 事項になってきたのだと思われます。迷信のなりたちパターンとはこのようなものです。 仏教の謂れとして、人が死してのち、往生をとぐるまでの間、すなわち、次の世への生縁を受けるまでの 中間の期間を中陰または中有(ちゅうう)といいます。これは亡き霊が、霊の世界の霊界に到り、往生を とげる前の幽界というところにあって、この期間が四十九日間であるとされていることから、死してのち 七日ごとに、仏に供物をささげ、回向して死者の冥福を祈り、無事なる往生を願う習慣が生じたものです。 |
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しかし、現実は必ずしも人は誰もが一様に四十九日の間に往生をとげられるとは 限らないのです。例えば、この世に異常な執着を持ち、未練や怨念などを捨て きれずにいる場合、肉体は死してなくなっても、その霊はこの現実の世界と霊界の 中間たる幽界にさまよい、四十九日は愚か、十年、五十年、百年経っても往生とげ られず、救われないことも少なくないのです。 俗にいう幽霊とは幽界にさまよう、まだ救われぬ霊をいうのです。 霊は前世・現世・来世の三世を貫く因果の理法によって、必ず過去世の(前世、 前々世)の善悪の行いである業(ごう)を宿業としてそのまま持ち越します。 悪業の深いものは往生し難く、生まれ変わり死に替わしていくなかで、正しく 輪廻の流れに乗れないこともあります。 |
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そこに追善法要の意義もあるのですが、ただ、形ばかりの回向や供養ではなく、本当に故人が往生を遂げ、 救われて行ったかどうかが大事なことなのです。また逆に、生前の常の信仰と善行功徳によって、回向なく ても導かれ往生する人には中陰思想は当てはまらないのです。弥陀の本願によって往生をとぐるという 「即得往生」を説く浄土真宗には本来はこの中陰思想はないように、この真実を見極めたならば、四十九日が 三月に渡る渡らぬで迷うのは愚かなことです。 |