こころの紋様 -ミニ説教-
新鮮な目、新鮮な心
三百六十五日、毎日感動
「いつも思うことながら元旦の朝に眺める山川草木大地、いわゆる森羅万象のすべてが、昨日のそれと 何らかわらないはずのに、何かしら新しく活き活きとして輝き、新鮮に見えるから不思議だ。 まさに『萬物光輝を生ず』の語句さながらだ。先般、福岡市圏の働く婦人向けの情報誌゛アヴァンティ″ 編集者の知人より、『新年号から"小さな感動"をつづるエッセーのコーナーを設けるから、その第一回目に 何か書け』といってきた。TVを見ても新聞を読んでも、スポーツを観ても感動することばかりだから、簡単な ご用だとばかり気安く引き受けた。 |
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ところが何かを書こうとしたら、その何かが何にも浮かんでこないのだ。 これには少々あせってしまった。 今までTVであれほど感動し、スポーツ観戦で感動したことは、実は自分 自身の感動でなく、人の感動、感激に共鳴し、心を震わせ涙していただけ ではなかったのかと言うことに気づいた。 |
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老化現象なのか、情操が豊かになり、感受性も育ち心の成長が出来てきたのか、涙もろくなり、もらい泣きも いっぱいするようになったが、この涙もやはり本当の意味での自分の体や心で味わう喜びや、悲しみの涙とは 違うのだ。 昔のことになる。玄海の浜辺、皐月松原から、何気なく拾って来た松ボックリが転がり落ちて 裏庭に小さな針のような浅緑の二つの芽を出した。この小さな芽ぶきに私はなぜか感動を覚え、引きぬかずに その後も見守った。その二つの芽は十有余年を経た今、庭木の仲間として立っている。 |
何でもない出来事だが、こんな新鮮な感動を私は最近失っている ことを知らされ、自らの心の老いに気づいた。 雑誌社へは取り敢えずの原稿は送ったが、私はいつも『小さな喜びを 喜びと感じることが大きな喜びだ』といってきた。 このように毎日の生活の中にいつも新鮮な目を持ち、いつでも小さな 感動を見つけられる自分でありたいと思った。 だからこそ『三百六十五日、毎日感動』を私の今年の修行テーマに したいと思う新年の明けだった。 |