こころの紋様 -ミニ説教-

三百六十五日を元旦として
〜冥土のたびの一里塚〜


ゴーンという除夜の百八の鐘と共に暦も変わり一年という区切りをつけて新たなる年を迎えました。

過ぎし一年を反省し、新たなる決意を持って新年を迎えられたでしょうか?

時の流れに形はありません。その形のない時の流れに年号という形を設け、暦を作り一日のあらたまりに

『おはよう』と挨拶を交わし、一年のあらたまりを「おめでとう」と挨拶を交わします。これは「形あれば心あり」

と申しますように、それの共通の時の中で人と人のつながりを深めあった先人たちの知恵なのだと思います。

今年はとりわけ21世紀の幕開けの年として何かにつけ騒がれた

と思います。この西暦というのはキリスト紀元のことであり、イエスの

生まれた年を元年(実際は生後四年目)とする暦のことで、百年前に

20世紀を迎えた明治34年は、日本では大陰暦でしたので今日の

ような騒がれかたはしなかったことでしょう。

一般的ではありませんが仏教ではお釈迦様の生誕を元年とする仏暦というものもあり今年は仏暦2544年という

ことになります。ともあれ、時は流れ、行く年くる年があります。

「一年の計は元旦にあり」と申しますが、「今年こそ今年こそはと誓えども三日坊主の元の木阿弥」などと

いわれる如く、人の心のもろさは仕方ないことでしょうか。

人に与えられた時間は皆平等です。大人も子供も年寄りも一日二十四時間、一年365日(正確には365日と

5時間48分46秒で、この余分な時間の調整のために4年ごとのうるう年がある)です。

今日という一日、いや毎日の時々刻々と過ぎてゆく時の流れは再び返ってくることはありません。

かつて本山京都大徳寺の一休禅師は

   門松や冥土のたびの一里塚

   めでたくもありめでたくもなし
      と歌っています。

正月だからと力みかえることなく淡々と一日一日を精一杯生きることの

ようにおもいます。

世紀末も世紀始めも共に時の流れのひとコマですが、どこにも区切りは

ありません。だから、その「時」そのものに意義があるわけでなく、

その「時」を意義あらしめるのはその「時」に生きる人それぞれなのです。

いたずらに馬鹿騒ぎをするのでなく、日々を神仏と共に生きんがため

三百六十五日を元旦として、一日一日をいつも心あらためて新鮮な

気持ちで暮したいものです。

一休禅師画像>




最後までお読み頂いてありがとう御座います。

 ぜひご感想をお寄せ下さい。

E-MAIL ns@jyofukuji.com
 戻り