こころの紋様 -ミニ説教-

惜しみない布施の心ありてこそ
〜貧者の一灯の真意〜


募金が行われる折に、よく「貧者の一灯です」という言葉を聞くことがあります。

これは、真心からの恵みこそ何より尊いということを言った言葉であり、それは有名な仏教説話の一節からの

ものです。お釈迦様が王舎城という町の近く、霊鷲山(りょうじゅせん)で説法をされているとき、マガダ国の

阿闍世王は沢山の飲食のほかに、万灯を献じて供養しました。

一方、その城下に大変貧しい老婆が住んでいて、その老婆もお釈迦様に対して何か供養をしたいと

思ったのです。しかし貧乏のため何にも供養するものがありません。

しかたなく、通行人からわずかの銭を恵んでもらい、それで油を買い、心ばかりの一灯を捧げたのです。

ところが、阿闍世王の献じた万灯は風にゆれて消えたりともったりでしたが、老婆の一灯はわずかの油なのに

夜通し赤々と灯りつづけたということです。
お釈迦様はこの貧者の心からなる布施によって、来世のよき世界への

生まれ変わりを約束されたということです。

つまり、王の万灯の施しは心からというより、豊かな財力から捧げたもの

であり、老婆の貧者の一灯には真心がこもっていたのです。

この話は貧者の一灯は富者の万灯よりも尊いということを教えています。

確かに貧者の一灯は尊いものです。

しかし、この話の「貧者の一灯」は、貧乏だからわずかな一灯さえ捧げればそれでよいと言うのでは

決してありません。

ところがよく世間では、この貧者の一灯と言う言葉だけをかりて、豊かでないことを理由に、出し惜しみの弁明に

される場合も少なくないようです。

「貧者の一灯で申し訳ないがこれだけで」と言う次第です。

だが、かの貧者の老婆は施すものが何もなくて、物乞いをしてまで一灯を献じたのですから、出し惜しみの

気持ちが、いささかでもあれば「貧者の一灯」などと言う言葉は使えないし用うべきではない思います。

もし「貧者の一灯」の言葉を借りて施しを惜しみながら供養するとする

ならばまことの供養にはならず、それは自らの心を偽り、神仏を欺く

ことなのです。

また金持ちが多額の施しをするのに、「施してやった」と恩着せしたり、

あるいは名誉欲から出た売名行為であったりすることがあります。

それはいずれも真の布施ではありません。

出し惜しみするのはわが身かわいさの、我執(とらわれ)であり、してやったというのも自我意識からの行為で

ありましょう。真の布施はその我執我見から離れ、己を虚しくする陰徳の行いであるべきです。 




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