こころの紋様 -ミニ説教-

大石順教尼の精神
〜断食に学ぶ布施の心〜


大石順教と言う一人の尼僧さんをご存知でしょうか?。

明治も末の頃。大阪で狂乱の父親による「堀江の六人斬り」という一家惨殺の殺人事件がありました。

養父に両腕を切断されながら、ただ一人生き残る十七歳の女性、大石よね子の生涯はあまりにも過酷であり、

今も涙と感動のドラマそのものとして語られています。
 この秋、障害者たちのスポーツ、パラリンピックが脚光を浴びて、

 今日では身体障害者への偏見はかなり薄らいできていますが、

 福祉制度などない明治の時代です。両腕を失い、家族を失ったよね

 子は見世物小屋に売られ、芸者にさせられながら、苦難に耐え、

 妻となり母となり、やがて仏門に入りて大石順教として出家し、

 自らの境遇に照らし多くの身障者の救済のために生涯を捧げたのです。
出家した順教尼は救いを求めて訪ねてくる身障者の為に、一日一食を断つことを仏前に誓ったということです。

すなわち、順教はその一食の断食を、自分を頼ってくる人々の為に捧げようとしたのです。仏門に入り八十一歳

で没するまで、一日一食を断ちつづけ、自らの不自由を顧ず生涯を身障者の福祉のために捧げ尽くし、

菩薩道を如実に実践した尊い方です。

それに比べ、三百六十五日、一日も欠かすこと無くどころか、一日三度ならず、間食、夜食に及ぶ人も多い

ことでしょう。現代ほど物質が豊かな時代はかって無く、飽食は高血圧症や糖尿病などの生活習慣病

(いわゆる成人病)の原因を作っています。


私たちも大石順教尼の崇高な精神とはいかないまでも、自らの健康の

ために一日一食は無理としても、一週間に一食でも、一カ月に一日でも、

その一食を断ち、断食によって得たる余財を貧しき人びとなど福祉に

役立てて見たいものです。

実は私は、順教尼を真似たわけではありませんが、かれこれ三十年ほど

前から毎月一回、勤労感謝の日にちなんだ二十三日にという日を

「断食日」と定め、この日の一日は一切の飲食を断っています。

そしてささやかではありますが、その断食による余財を、社会の為に施す

ことにしてきました。


断食にせよ、施しをするにしても、これは強制されてやるものでもありませんし、自らの発願、誓願として

おこなわるべきですが、ここであらためて、皆様にに提案したいと思います。

一週間の内の一食でもいい、一ヶ月のうちの二食でも一食でもいい、自らの「胃腸の休息日」を

もうけてみては如何でしょう?

それは食に対する貪り、渇欲の心を断ち、そして飢えに耐える克己心を養い、その余財を施すことによって

布施の心を養うことになるでしょう。身体の健康のためにも、また心の修養のためにも、一日断食、あるいは

一食断ちでも大変意義があると思います。

贅沢に慣れきっている今日の私たちにとって、この断食はの行は食べ物に対するありがたみを知り、感謝を学び

そして飢えに苦しむ人の気持ちの万分の一でも理解できることでしょう。


最後までお読み頂いてありがとう御座います。

 ぜひご感想をお寄せ下さい。

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