こころの紋様 -ミニ説教-


心の旅 魂
(こころ)の旅

現世身(うつせみ)重き旅の宿



 あるご婦人の冗談話です。ある朝、顔を洗らおうと洗面台の鏡を見たら、何と知らない女の人が写っている

ではありませんか。

一瞬びっくり!驚いてよく見ると化粧をした自分の顔だったというのです。

いかに厚化粧をしていたからと言っても、まさか自分の顔を他の人と見まちがえたりはしないでしょうが、

本人が冗談話として言われるから、可笑しくもあり真実味が感じられたのです。

 よくよく考えて見ると人は誰一人として本当の自分そのものの顔を見たことが無いはずです。

みな鏡に写る自分の顔であったり、ビデオや写真の顔ばかりなのです。

自分で思っている自分と他の人が思っている自分とは必ずしも同じとは限りません。

嘘をついた時の一瞬の自分の顔、悲しみの顔、怒り狂った己れの顔等々千変万化、鏡に写せばそれは

もう別の顔でしょう。

 私たちは人として長い間生きて来て、その間色々勉強もし、ある程度の知識も理屈、理論も覚えました。

そして好いも悪いも理論武装したり、自己主張や自我感情もしっかり身に付けて、やがて、何がしかの立場や

肩書きを持ち、地位や名誉や財産も出来れば、着飾り化粧して、もうどれが本当の自分なのか見失うことも

少なくないと思います。

時には、社会常識や迷信、慣習に執われ、面子、体面、沽券に執われて苦しみ悩んだりしている、様々な

自分がありその時のその時の顔があります。

 一体本当の自分の顔、否、自分そのものとは何かさえ

わからなくなっているのではないでしょうか。

そう言う見失った本来の自分を、もう一度取り戻し見なおす

ことを、禅宗では大事な修行眼目の一つにしています。

それは「己事究明」(こじきゅうめい)と言い文字通り己れの

ことを究明することです。

大自然の営みの中、父母を縁としてこの世に生まれ、自分という自分にしかない、たった一つの自分の

「いのち」を頂いた、その命の尊さの自覚でもあります。

現代的にしゃれた表現をすれば「自己発見の旅」であり「真実の自分探し」であり「心の旅、魂(こころ)の旅」

と言うことなのです。

   "君も旅 我も旅なり 又の世も

         行き先尽きぬ旅路なりけり"


と歌われているように今世の一生涯だけでなく、この旅は生まれ変り死に変わり行く輪廻の旅路でもあります。

私も一つ旅の句を作っています。私の代表作なのです。と言ってもこれ一つきりなのですから当然です。

「目覚むれば現世身(うつせみ*空蝉)

          重き旅の宿」


(現世身も空蝉もうつせみと読むかけ

言葉にしています)

この句は数年前、東北岩手の花巻温泉

旅館で出来ました。


<俳人松尾芭蕉も人生の旅人だった、、>

朝湯につかり心地よく転寝(うたたね)をして、

ふと目を覚ました視線の先きの庭木の根元に一つの空蝉(蝉の脱け殻)がありました。

空蝉はもうぬけがらですから軽いはずなのです。

ところが湯疲れもあるのか、ぼんやりと蝉のぬけがらのような腑抜けの私の現世身(うつせみ)

気だるく重いのです。

世のしがらみもある。それより煩悩妄想がいっぱい詰まっているその重みなのかもしれないなぁと考えつつ

浮かんだ句なのです。

意識する、しないに関わらず人は誰でもそう言う真実の自分を捜しもとめているのだと思います。

ある人から『自分は命が一番大事だと思っていた頃は生きるのが苦しかった。しかし、命より大切なものが

あることを知った時から生きることが嬉しくなった』と言う話を聞かされたとき、私は思わずその方に手を

合わせました。

命より大切なもの、それは命をお与え下さった大いなるものの根源に触れられたにちがいありません。

それは神仏を知り、自分が生きているのでなく仏によって生かされていることを体得されたからでしょう。

まさに己事究明がなされ、自己発見の旅を終えられたに違いないからです。



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