こころの紋様 -ミニ説教-


  ゆとりとゆずり 〜ハンドルは心で持つべし〜



大きな道路には中央線があり、それからはみ出して走るのはルール違反である。しかしよく対向車が中央線を

大きくはみだして走ってくることがある。

「あっ!危ない」と慌ててハンドルを切り、何とか事故を免れたことがあって、ひやりとしたり、なんと無茶な運転を

する人だろうと、腹立たしい思いもしばしばである。

私は中央線の内側を正規に走っているのだから正しいのだと言っていたのでは、衝突は避けられない。

自分はルールを守って正しいのだからと突っ張り、先方の車の方がよけるべきだと自我を通せば、当然

交通事故の悲劇が展開されることだろう。

たとえ裁判で勝訴しても、肢体不自由になったり、ましてや命まで落とさないとも限らない。

たった十センチか二十センチ、ハンドルをきれば

すむことである。

そのわずかの労を惜しみ、自我を通すことの悲劇は

計り知れないものである。

たとえ相手がルール違反であれ、中央線をはみ出して

走るには、善悪は別にしてやはりはみ出して走らなければ

ならない相手の理由、相手の判断があってのことだろう。

たとえば車道に大きな穴ぽこや水たまりがあったり、猫や犬が飛び出したり、或いはその死骸が横たわって

いたりしている。私だって穴ぽこにはまりたくないし、水溜りはよけて通るはずだ。そんな時とっさに中央線を

はみ出してしまうだろう。

疲れたら私だって眠たくなることがしばしばである。一瞬ながらコクリトなってしまう。フラフラしながら中央線を

はみ出して、冷や汗を書くこともあった。他人事ではない、いつ自分がその加害者にならんとも限らない

わけである。

少なくとも私は相手に対して「無茶な

奴だ」と責める資格は無いのである。

お互いさまである。人間関係の対立や

諍いはお互いが、私の方が正しいのだ

と言う自分の考えや思いを押し付け合う

ことで起きることが多い。

これも自分が快く、わずか十センチか二十センチのハンドルを切るかどうかで解決されるように思える

ことがある。

わずかのハンドル操作がどれほど損をすると言うのだろう。相手に負けるのが悔しいのだろうか。

むしろ相手に譲り、相手の相手の考えを入れると言うことは、相手より高い境地にありゆとりある大きな心を

持っているあらわれでありる。それによって相手も心を開き感謝で応えるようになっていくことだろう。


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