こころの紋様 -ミニ説教-
本来、仏教の信仰とは、先祖の位牌を拝んだりお墓参りをすることではありません。 仏の教えを正しく認識し、これを誓い、行う実践行であるといわれています。 ただ単に神仏を拝み、「家内安全、商売繁盛、病気平癒をお願いします」とご利益を願うのは、 ご利益信仰と言い、これは本当の仏教信仰とはいえ無いでしょう。 単にご利益のみを求める信仰であれば、それは欲望の追求であり、欲望の充足であり、それはむしろ 欲望の増大にも通じ、欲望の心を浄めようとする本来の仏教信仰への逆行です。
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ところが、仏教は他の宗教とは違い、このご利益信仰を 低級だとか、反仏教的だといって一概に否定して しまわない幅の広さを持っています。 それどころか、むしろこのご利益信仰さえ、衆生救済の 方便として積極的に取り入れているほどです。 仏教寺院のほとんどは、ただ本尊仏がまつられている だけでなく、境内のどこかに必ずと言っていいほど 現世利益に結びつけられる観音様が祭られていたり、 お地蔵様やお薬師様などが安置され拝まれています。 この目的はあくまでも真実.実相の世界たる仏の世界へ 導き入れる方便であり、手段であるはずです。 |
昔の仏典童話に「ある大家の主人が外から 帰って見ると、我が家が火に包まれていました。 家の中にはまだ火事に気づかず子供たちは遊び に興じていました。 危ないから早く外に出るように叫んでも、遊びに 夢中で聞き分けてくれません。 そこで父親はとっさに『お前たちが欲しがっていた オモチャをいっぱい買ってきたから早く出て おいで!』と叫んで知らせると,子供たち一斉に 外に飛び出して来て、無事火災より救われて、 目出度し、目出度し」と言う方便話があります。 |
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いくらいい話をしても、相手がそれを求めていない限り、聞き入れ、聞き分けるはずはありません。 まさに馬の耳に念仏、猫に小判で、どんなに有り難い真理の教説をきかせても、、現実生活で仕事に 追われていたり、自分の悩み、家族の病気、あるいは人間関係で悩み、さらに子供のこと、自分の老後の こと等さまざまな悩み苦しみ、迷いの最中にあるときに仏教の小むづかしい悟りの話など素直に耳に入る はずはありません。 人はパンのみに生きるにあらずといえども、先ず飢えたる人にはパンを与えその飢えをいやしてやり、 現実の苦悩を解消してやることの方が先決なのです。つまりこれが仏教の方便ととしての現世利益です。 この安心の上に精神的向上、真の仏教への関心を湧かせ、信仰心を育てていくための現世利益なのです。 単に人々の願望、欲望をかなえるための信仰に止まってはならないはずです。
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