こころの紋様 -ミニ説教-

 

死に方いろいろ <<<悲しみの教育>>>

 

"紅いに燃えてもみじの散り支度 "

仕事柄、人の死に巡り合うのは仕方がないことですが、このところ知人や友人の訃報を聞く事が多くなりました。

今が一番働き盛り、自分自身の死などについては凡そ考えもしない年代でしょうか? しかし現実には同輩が、

一人去り、また一人去っている以上、やはり他人事ではありません。

 「死ぬときは死ぬがよろしく候」と良寛和尚は申されていますが、誰もが必ず一度は通らねばならない、死出の

門なのです。

定めある自らの寿命を全うし、従容として「死ぬときは死ぬがよろし」と、自らの死を迎えられる境地でありたいもの

だと思っています。自分の命は即ち、宇宙の命、大自然の流れの中で、巡り合わされたご縁の中に生まれて、

生きて、生かされてここに存在しているに過ぎません。

 

 秋も深まるこの頃、自然の動きの中に素直に身を委ね、

花は花の役目を終えて散る如く、木の葉は木の葉のつとめを

果たし、紅に色づいて、やがて晩秋の風に誘われるように

去っていく、そんな心境で死を受容できたらいいなぁなどと

妄想をつのらせています。

 ドイツやアメリカなどでは「死の教育」とか「悲しみの教育」

というものがあるそうです。不意に襲ってくる不治の病い、

突然宣告されるガン。そんな時、心安らかな死を迎えることが

出来ましょうか?

そう言う事態に備え、うろたえ恐れることの無いように、

前以ての「死の教育」なのです。

 

 何もわざわざ、前以て、そんな時のことを考える

ことはないではないか、その時が着たらその時に

考えればよい「明日を思い煩うこと無かれ」と

いうではないか、との反論もありましょう.。

しかし、その時が来て恐怖におののいたり、

慌てて取り乱したり、あるいは伴侶をうしない、

寂しさに力を落とし、やがて気力を失って自ら

病み、命さえ縮める人たちが少なからずおられる

のを見ていると「その時が来たらその時だ」と

ばかりは言ってはおれない気がします。

 

 「生を明らめ死を明らむるは、仏家一大事の因縁なり」とは道元禅師のことばです。生死の問題は仏教の根本に

関わる大命題でもあります.。しかし、そんなに容易く生死をあきらめ、悟れない私たち凡人は、凡人としての

上手な死の迎え方の心得を学んでおくのも無意味ではないはずです。

 


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